インタビュー

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毎日のチャレンジを大事に レジェンド・田臥勇太が描く、これからの夢
ユメミルノート vol.11|バスケットボール 田臥勇太選手
闘い抜くアスリートたちはこれまでにどんな夢を掲げ、叶えてきたのでしょう? そして、その夢のためにどのような努力をし、失敗や苦労を乗り越え、どんな人やものに支えられてきたのでしょうか。そんなアスリートの夢を紐解く連載「ユメミルノート by スポーツくじ」。第 11回は、バスケットボール界のレジェンド・田臥勇太選手が登場。
神奈川県横浜市に生まれ、能代工業高校時代には前人未到の高校9冠(3年連続インターハイ・国体・ウインターカップ優勝)を達成。田臥選手は若くして日本バスケ界の期待を集める存在となりました。その後、ブリガムヤング大学ハワイ校へ留学し、トヨタ自動車アルバルク(現・アルバルク東京)を経て、2003年よりアメリカ独立リーグでプレーするなど、国内外でその実力を発揮します。そして、2004年にはフェニックス・サンズと契約。日本人選手として初めてNBAのコートに立ち、後に続く選手たちのために、その道なき道を切り拓いたパイオニアとなりました。
2008年に加入したリンク栃木ブレックス(現・宇都宮ブレックス)では、Bリーグ発足後に史上最多となる三度の優勝に貢献。2026-27シーズンで在籍19年目、45歳にしてなお現役キャプテンを務める田臥選手は、「今、ますますバスケットボールが楽しい」と語ります。夢を叶えた先に、どんな新たな夢を見ているのか。その原動力と思い描く未来について伺いました。
外で遊ぶのが好きだった少年時代、父が繋いだNBAへの夢
幼い頃は外で遊んだり、体を動かしたりするのが大好きだったという田臥選手。バスケットボールが盛んな地域で、3歳上の姉も地元のミニバスケットボールチームの一員でした。小学2年生になると、そのあとを追うように田臥選手もチームに加わりました。
「実はそれまで水泳をやっていたんです。泳ぐのもそれなりに得意だったのですが、バスケットボールに触れたときに、これまでやってきたどのスポーツよりも『自分に合っている』という感覚がありました。ボールの扱いや動きが人よりちょっとうまくできるというか。それが少しずつ自信に変わっていきました」
やがて、父親が録画したNBAの試合を見て、「自分もNBAプレーヤーになりたい」という夢が芽生えます。それからはバスケットボール漬けの日々。試合には必ず両親が駆けつけ、父親が田臥選手のプレーをビデオに収めてくれました。
「家に帰ると、夕食を囲みながら試合の映像を見て反省会をするんです。家に帰ってからもバスケットボール漬けでしたが、バスケを通じて家族が一つになれていたのは、選手人生にとって大きなことだったかもしれませんね」
「いつかあのコートでプレーしたい」──憧れの場所、高校9冠への道
ミニバスケットボールチームで指導をしてくれていたのが、学校の先生でもあった住田昌治先生。恩師の指導のもと、小学3年、4年、6年と3度の県大会優勝を掴み取り、全国大会の舞台にも立ちました。
「住田先生自身が学生時代にバスケットボールで全国制覇を目指していたこともあり、全国大会が行われる代々木第二体育館(国立代々木競技場第二体育館)で試合をすることを目標に掲げていました。僕にとっても、代々木第二体育館はずっと憧れの場所だったんです。6年生のときに全国大会へ出場できたものの、メインコートには進めず、その後もいつかあのコートでプレーしたいと夢見ていました」
秋田県立能代工業高校時代は3年間で9冠を達成 [写真]=The Asahi Shimbun/Getty Images
実際にその夢を叶えたのは高校生になってから。田臥選手はバスケットボールの名門・秋田県立能代工業高校へ進学し、1年生からレギュラーを獲得。憧れ続けた代々木第二体育館のメインコートに立つと、3年間でインターハイ、国体、ウインターカップをすべて制し、前人未到の高校9冠を達成しました。
当時、厳しい練習が続く日々にあっても、田臥選手がバスケットボールを辞めたいと思ったことは、一度もなかったと振り返ります。
「自分がやりたいと思って始めたことを、家族もサポートしてくれましたし、バスケットボールを通じてできた仲間もたくさんいました。だから嫌になる理由はなく、むしろどんどん好きになっていったんです。今もその頃と楽しさは変わっていないし、むしろ増しているくらい。だから当時の自分には、『そのままバスケットを楽しんで』と言いたいですね」
ゼロからの挑戦で掴んだ「NBA選手になる」という夢
高校卒業後は単身アメリカへ渡り、大学、そしてトヨタ自動車アルバルク(現・アルバルク東京) を経て、2004年にフェニックス・サンズと契約。大柄な選手たちがひしめく世界最高峰のNBAで、身長173cmのポイントガードとして、そして、日本人選手として初めて公式戦のコートに立ちました。それは、日本バスケットボールの歴史が大きく動いた瞬間でした。
フェニックス・サンズに所属してNBAの舞台に立った田臥選手 [写真]= Barry Gossage/NBAE/Getty Images
「小さい頃からの夢を叶えられたわけですから、非常に嬉しかったです。ただ、NBA選手になった瞬間、『NBA選手になる』という夢はもう過去のものになる。次は選手であり続けるために、目の前のことにチャレンジして進んでいかなきゃならないんです。夢を叶えたからこそ、そこで終わりではなく、続きがあるということを学びました」
常に結果を求められる厳しい環境の中、田臥選手はシーズン途中の解雇も経験。しかし、プレッシャーに苦しむことや落ち込むことよりも、常に先を見据える心を持ち続けていました。
「ダメだったときにそこで立ち止まっていたら、他の選手にチャンスを掴まれてしまう。だから考えている暇なんてなかったですね。だったら1秒でも早く切り替えて、1時間でも多く練習する。そうした姿勢は、うまくいかないことばかりだったアメリカでこそ身につけられたと感じます」
感謝を力に、ブレックスとともに歩んだ日本での挑戦
2008年に帰国し、リンク栃木ブレックス(現・宇都宮ブレックス)に加入した田臥選手は、2016-17シーズンに開幕したBリーグで、チームを初代王者へと導きます。その後も宇都宮ブレックスは二度の優勝を果たし、リーグ史上最多となる三度のBリーグ王者に輝いています。
しかし、優勝という結果だけが、そのシーズンの価値を決めるわけではありません。思うような結果に届かなかった時間にも、次へ進むための学びがある。だからこそ田臥選手は、勝敗以上に、そこへ至るまでの過程を大切にしています。
「もちろん毎シーズン優勝したいと思っています。でも、勝てるか勝てないかだけにとらわれず、そこまでのプロセスを大事にしたいんです。勝ったシーズンも負けたシーズンも、どれもがすごく糧になっているので」
2026-27シーズン で在籍19シーズン目という、その長いキャリアは、数えきれない人や環境に支えられてきました。中でもチームの地元である宇都宮の人々の存在は大きいと語ります。
「街を歩いていても、ジムにいても、みなさん声をかけてくれて、こんなにありがたいことはないですね。宇都宮は、地域の中に自然とバスケットボールが根付いていて、そういう雰囲気が、以前暮らしていたアメリカにも似ているんです。自分たちの活動で、街の皆さんが楽しんでくれたり、元気になってもらえたりするだけで、やりがいを感じます」
受けてきた支えを、次の世代へ。田臥選手が願う「体験の場」
「自分の好きなことをこの年齢になってもできているというのは、本当に恵まれているし、ありがたいこと。キャリアを重ねる中でその気持ちはどんどん増している」と語る田臥選手。バスケットボールをはじめ様々なスポーツの練習環境の整備や大会の開催などに、スポーツくじの助成金が活用されていることにも、感謝を寄せます。
「バスケットボールに限らず、様々なスポーツの現場がスポーツくじの助成金によって支えられているんですよね。練習できる環境や大会など、自分が直接知らないところでも手助けいただいてきた。そのことを知って感謝の気持ちが増しました」
田臥選手はプレーヤーとしてだけでなく、学校訪問などを通じて子どもたちにバスケットボールの魅力を伝える活動もしています。そうした交流を行っている立場から、これまで受けてきたサポートや環境への感謝を語るだけでなく、スポーツくじの助成金によって、次世代のために子どもたちが様々な競技と出会い、実際に体験できる場所が増えていくことを願っているといいます。
「今はSNSで情報はいくらでも手に入りますが、実際にボールを触ったり、競技ができる場所は、昔に比べて減っていると聞きます。自分はどんなスポーツが好きなのか、楽しいと感じるのかを知るきっかけにもなると思うので、体験の場が少しでも増えていくと嬉しいですね」
「1年でも長く」 45歳、レジェンドが描く夢
幼い頃に抱いたNBA選手になる夢を叶え、今日まで第一線を走り続けてきた田臥選手ですが、夢を叶えたその先で、今、どんな未来を思い描いているのでしょうか。答えは、驚くほどシンプルでした。
「1年でも長く、バスケットボールを続けられたらいいなと思っています。それが今の自分にとって大きな目標です」
また、バスケットボールと向き合うことが、「年齢、キャリアを重ねるほど、シンプルになってきている」とも語ります。
「ボールを持つだけで、バスケットボールの音が聞こえるだけで、ワクワクするんです。毎日チームメイトと話したり、たとえ話さなくても、みんなを見ているだけでも楽しい。こんなに幸せなことはないですし、そんな日々が一日でも長く続けば嬉しいですね」
45歳の今も、挑戦したいことは「毎日ある」と言い切る田臥選手。かつて夢見たNBAのコートも、今日の練習で追い求めるあと一本も、田臥選手の中では今も地続きなのかもしれません。
「チャレンジに大きい、小さいは関係ありません。自分がチャレンジだと思えば、チャレンジなので。今日の練習であと一本入れられれば、あのシュートが、あのパスが――。そんな毎日のチャレンジを、これからも大事にしていきたいです」
スポーツくじの収益は、バスケットボールの普及・発展のためにも役立てられています。
地域の体育館のバスケットゴールの設置やミニバスケットボール大会の開催、アンダーカテゴリー日本代表の強化など、スポーツくじの助成金が広く役立てられており、田臥勇太選手ら日本を代表するバスケットボール選手の輩出を後押ししています。
スポーツくじの助成金は、バスケットボールをはじめとした日本のスポーツの国際競技力向上、地域におけるスポーツ環境の整備・充実など、スポーツの普及・振興のために役立てられています。
(取材:2026年7月)

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田臥 勇太たぶせ ゆうた
1980年10月5日生まれ、神奈川県出身。8歳でバスケットボールを始め、秋田県立能代工業高等学校に入学後、3年連続でインターハイ・国体・ウインターカップを制し、史上初の9冠を達成。世界ジュニア選抜にも選ばれる。2000年、NCAA2部のブリガムヤング大学ハワイ校へ留学。トヨタ自動車アルバルク(現・アルバルク東京)でプレー後、2003年よりアメリカ独立リーグでプレー。2004年9月にNBAフェニックス・サンズと契約し、日本人初のNBAプレーヤーとなる。同年12月に解雇後、NBAロサンゼルス・クリッパーズ等に在籍。2008年にリンク栃木ブレックス(現・宇都宮ブレックス)に入団し、6年ぶりに国内復帰。2010年には12年ぶりに日本代表復帰。2016年、ブレックスがBリーグ初代王者に。2014-2015シーズンから現在に至るまで同チームのキャプテンを務めている。
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